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大きな古時計/24


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自分のトピックを作る
■: ハナミズキ [×]
2014-09-20 22:44:03 

―  説明文  ―

20歳の青年と、10歳になる少年との、不思議な友情物語になります。


※ 恋愛ものではありません。期待をした方、ごめんなさい。 <m(__)m>


1: ハナミズキ [×]
2014-09-20 22:51:24

◆ 居場所 ◆


俺は誰のために生まれて来たのだろうか。
俺は何のために生きているのだろうか。
このまま生きていても、誰も俺の事など必要としないのではないだろうか。
俺の存在価値とはいったい、何なのだろうか。
俺はこのまま・・・生きていてもいいのだろうか・・・。

最近そんな事ばかり考えている。

俺が幼稚園の頃、弟が生まれた。
弟は体が弱く、ずっと入退院の繰り返しだった。
弟が入院すると、俺は近所に住む婆ちゃんの家に預けられていた。
長い時で3カ月と言う時もあったな。
あまりにも頻繁に弟が入院をするので、とうとう俺は婆ちゃん達と一緒に暮らすことになる。

婆ちゃんはとても優しくて、毎日俺の好きな物を食べさせてくれる。
でも、時々怒る婆ちゃんは、少し怖かった。
婆ちゃんと過ごしたあの日々が、いま考えれば一番幸せな時だったのかもしれないと実感する。

だけど、大好きだった婆ちゃんはもう居ない。
だいぶ前に亡くなってしまった。
大人たちは、84年も生きたのだから大往生だろうと言うが、俺にすれば、もっと生きていてほしかった。
84年と言わず、100年でも200年でも・・・・。


2: ハナミズキ [×]
2014-09-20 22:52:33

そして今、俺は自分の両親の家に帰って来ている。
家に帰って来たのは、俺が小学校5年生の時だ。
そのとき弟は5歳で、相変わらず入退院を繰り返していた。
10歳になっていた俺は、母親を困らせないように、父親が帰ってくるまで1人で留守番をして待つ事にしたが、仕事の忙しかった父親の帰りはいつも夜中だ。

朝は目覚ましで起き、1人で昨日の残りのご飯を食べて学校に行く。
学校から帰って来ると、弟の洗濯物を持って帰って来て洗っている母親が家に居るが、掃除をしたり、俺の晩御飯の用意をしたりと、忙しそうだった。
それでも母親が居るのと居ないのとでは、気分的に違う。
それに、いまこの家の中に居るのは、俺と母親の二人だけ。
母親を独り占めしているようで気分がいい。
でも、そんな幸せな時間も小一時間程度で、いつも終わりが来る。
夕方5時になると、母親は弟の居る病院へと帰って行くからだ。

また一人だ。
夕日が沈み、辺りが暗闇に包まれる。
夜は、父親が帰ってくるまで1人で留守番。
父親の仕事が忙しい時期は、顔を合わす事などほぼ無い。

俺はいつしか孤独に慣れていった。
自分の事は自分で。
1人でできる事は、出来る限り自分でやっていた。
家でも、学校でも、いい子を演じていた。

将来何になりたいとか、何をしたいとかいう、夢や希望などは無く、ただ人生に流されるままに、時は過ぎていった。

高校3年の時、最終的に進学か就職かを決める時、漠然と進学を選んだ。
何かを学びたかったわけでもなければ、将来のためにと進んだわけでもない。
ただなんとなく、就職をする時に有利になるだろうと思って進学をしただけだ。
しかし、頭の片隅にはいつも、あの優しかった婆ちゃんの存在が残っていた。
そのせいなのかどうかは分からないが、俺は大学で介護学科リハビリ専門科に入学をする。

そして俺は、家から大学に通いながら2年が過ぎていた。


3: ハナミズキ [×]
2014-09-20 22:53:23

弟は中学3年になり、成長と共に体も丈夫になってきて、ほとんど入院をする事がなくなっていたが、母親は相変わらず心配をして、弟に付きっきりだ。
俗にいう過保護と言うやつ。

逆に俺は、昔から親に放って置かれたおかげで、何でも一人で出来るようになっていた。
家事だってお手の物だ。
だが今は、母親が家に居るので、俺の出番はまったくと言っていいほどない。
それに、弟の事ばかりかまっているので、俺が家に居なくても気が付かないようだ。

俺は一体何のために生まれて来たのだろうか。
俺が居なくなったら、誰か気が付いてくれるのだろうか。

そんな事を考える日が多くなった。


4: ハナミズキ [×]
2014-09-21 00:07:56

◆ 古時計 ◆


大学に入ってから、時間に余裕が出来た俺は、コンビニで週4日ほど、17時~22時までバイトをしていた。
欲しい物があり、お金が必要だからと言う訳ではない。
家に居ても自分の居場所が見つからず、部屋に閉じこもって1人パソコンに向かうか、ゲームをするくらいしかやる事が無かったからだ。

通学の途中にあるコンビニで、バイトを募集する紙が貼られていた。
ただなんとなく、人との繋がりが欲しかったのだと思う。

友達はいるが、その考え方に付いていけないところがある。
自分中心で、都合の悪い事が起こると、すぐに他人のせいにして文句を言い、自分と価値観が違う者は、批判の対象となる。
この考え方に、俺は付いてはいけなかった。

相手を分かろうとはしない、いや、分かった振りをする。
だから話が時々かみ合わなくなる。
うわべだけの付き合いならこれでいい。
相手に合わせて生きる方が、気が楽だ。
そう思っていた。
でも、何故だか心にぽっかりと、穴が開いているような寂しさが時々こみ上げ来る。
だからバイトの張り紙を見た時に、引き寄せられたのだと思う。


バイトで稼いだお金の使い道はなく、自分の小遣いの他はすべて貯金をしていた。
お陰様でかなりの金額が貯まった。


5: ハナミズキ [×]
2014-09-21 00:09:23

今日はバイトも休みなので、久しぶりに街を1人ぶらぶらとしてみた。
すると、今まで気が付かなかったのだが、一軒の骨董屋を見つけた。
何かに吸い寄せられるように、その店に入ると、いかにも胡散臭そうな商品が沢山置いてあった。
ワンポイントアドバイスのような張り紙には、古びた狸の置物の頭に「幸運を呼ぶお狸様」とか、どこかの、夜逃げをした食堂からでも持ってきたような椅子の背もたれには「アインシュタイン愛用の椅子」などなど・・・。

それらの中にあった、店の隅に置かれていた大きな古時計に目がいく。
やはり、それにも紙が貼り付けられていた。
それには、「奇跡の大時計」と書かれている。
気になったので、店主にその意味を聞いてみると、この大時計は、戦争中に、空襲を受けた場所に在ったにもかかわらず、その戦火を逃れ、現在まで残っている奇跡の大時計だと言う。

俺は迷わずその大時計を買った。
何故か分からないが、買わなければならない様な気がしたからだ。
持って帰るのが大変そうだったが、この際そんな事はどうにでもなる。
タクシーに積んで家まで持ち帰ると、家族が怪訝そうな顔をして、俺に文句を言ってきた。

「そんなガラクタどうするの?」

母親がぼやく。

「部屋に飾って置く。邪魔にならないようにするからいいだろ、母さん」

母親は渋い顔をしたが、自分の部屋ならいいだろうと許してくれた。

「まったく・・・翔太の考えてる事って分からないわ・・・」

2階にある自分の部屋に、古時計を運んで行く途中で、リビングに居る母親の呟きが耳に入って来た。
自分の母親から言われる、子供に対しての愚痴ほど聞きたくないものはない。
精神的ダメージが大きいのだ。
何も感じない振りをしてはいるが、これはかなり堪える。

そういう時、俺はいつも思う。

― 婆ちゃんが居てくれてたらな・・・・ ― と。

俺の部屋は六畳間で、部屋の中には、ベッドと机、テレビと本棚がある。
机の上にはパソコンが置いてあり、レポートなどの調べものに使っている。
テレビはもっぱらゲーム専用の様になっていて、本棚には漫画本しか入っていない。

さて、この古時計をどこに置こうか。
テレビと本棚の間が丁度いい具合に空いていて、そこに置く事にした。
古時計の大きさは、高さが丁度、俺の股下くらいの高さで、幅はパソコンの画面ほどの大きさである。
置時計と言えばいいのか、飾り時計と言えばいいのか分からないが、木で出来ているその時計は、重厚感たっぷりの何とも言えない趣(おもむき)がある。

ゼンマイをまけばまだ使えると言うので、早速巻いてみる。

― ギギッ ギギ ギギギギッ ―

― カチッ カチ カチ カチ ― 動き出した。

そう言えば、婆ちゃんの家にも、こんな音が出る柱時計があったっけ・・・。
懐かしい音だ。

目を瞑り、音を聞きながら、婆ちゃんとの思い出に浸っていると、古時計の方から「カサッ」という音が聞こえた。
何の音だろうかと、時計を調べてみる。
時計の下の部分が、開き戸になっており、小さな物なら収入できそうな位の、広さと高さがある。
その中に一枚の紙が入っていた。


6: ハナミズキ [×]
2014-09-21 00:10:23

買った時に、一応何もない事を確かめて買ったのだが、いつの間にかチラシのような物が入っていた。
それを手に取り読んでみると、

「ん?んんん???なんだこれ?
 かいよは意用 空防げ防???」

「あっ!そうか!! これは左から読むんじゃなくて右から読むんだな・・・」

― 防げ防空 用意はよいか ― そう書いてあった。

俺はそのチラシを興味深く読んでみる。

「警戒管制?警戒警報の事か?ふむふむ。
 屋内燈 隠蔽又ハ減光且遮光(カバーヲ付ケ薄闇ニシ直接外ニ灯ノモレナイ様ニスル。
 (その横には、防空準備と書いてある。)
防空準備?・・・いつの時代だよ・・・。
 水ヲバケツニ一パイト 砂ヲバケツ又ハ適当ノ入レ物ニ一パイ入レテ戸口ニオク。
 ・・・・・・・なんなんだ、これは・・・・。」

そしてその横には「空襲管制」とも書いてあった。
要約すると、警戒管制では警報はならず、空襲管制だと警報が鳴るらしい。
それに、警戒なら灯を暗くするだけでいいが、空襲警報が鳴ったら、灯はすべて消せという事らしい。
そして、とりあえず、逃げろ!という事だ。

なんなんだこれは・・・まるで戦時中のチラシのような物じゃないか・・・。
なぜこんな物がこの中に入っていたのかは、全くもって疑問である。

そして俺は、ちょっとした好奇心で、そのチラシが入っていた時計の中に、大学で女子から貰った飴玉を、先ほど入っていたチラシに包んで、時計の中に戻してから扉を閉めてみた。

そして再び開けると。
!!! 無い!何も入っていない!!
不思議な事もある物だと首を捻った。

俺は目を開けたまま寝ていたのだろうか・・・・。


7: ハナミズキ [×]
2014-09-21 00:11:37

それから数日後、大学の宿題で出されたレポートを、パソコンを使ってやっていた時、ふと、この前のチラシの事が頭に浮かんだ。
あのチラシはいったい何だったのだろうか。
あの文句はどう見ても戦時中の文句にしか見えなかった。
その証拠に、右から書かれていたし・・・。

気になったのでその事を調べてみる事にした。

「戦時中の、チラシ・・・っと」

手当たり次第にサイトを開いて確認をしてみると・・・あった。
それも全くと言っていいほど類似している。
あれはやはり、戦時中のチラシだったのだろうか。
俺はもう一度、時計の扉を開けて確認をした。
何も入ってはいない。
空のままだ。

季節は7月に入り、大学も夏休みになった。
相変わらずバイトに行く以外、俺は引きこもり同然の生活を送っていた。
そして、ゲームをしていると、あの音が聞こえた。

― カサッ ―

今回も古時計の方から聞こえる。
俺は扉を開けてみる。

今度はチラシなどではなく、ノートの様な物が中に入っていた。

「何だこれは・・・?」

普通の落とし物とか忘れ物なら、俺だって中を見ようとは思わない。
しかし、俺の部屋の中に現れ、俺の持ち物の中に入っている。
ならこれは俺の物なのか?
よく分からないが、とりあえず好奇心の方が勝ったようで、中身を確認する事にした。

そのノートは日記のような物で、日付とその日の出来事が書いてある。


8: ハナミズキ [×]
2014-09-21 00:12:37


18年1月1日
今日はお正月です。
いつもはサツマイモを半分いただくのですが、今日は少し多めに食べる事が出来ました。

1月3日
今日は配給の日です。
お母さんが配給を貰いに行きましたが、ほんの少ししか貰えなかったと言ってました。

4月15日
砂糖の配給が無くなってだいぶ経ちます。
お饅頭が食べたいです。

4月18日
奇跡です!
僕の置時計の中に、飴が入ってました!
町内に回って来た、空襲時の広告を、大事な物だからしまっておきなさいとお母さんが言ったので、僕は、僕の大事にしてる置時計の中にしまいました。
すると音がしたので、ネズミでも入ったのかと開けてみると、広告に包まれた飴玉が5個も入っていました。
嬉しかったです。

6月3日
白いご飯をお腹いっぱいに食べた夢を見ました。
でも起きると、やっぱりお腹は減っていました。
今日もサツマイモ1つを家族で分けて食べました。

7月9日
空襲警戒警報が鳴りました。
みんなで防空後まで逃げて、敵機が居なくなるまで隠れたました。


7月9日って、昨日じゃないか・・・。
それに、飴だって?
確かに俺は、4月にこの古時計を買って、変なチラシに飴玉包んで時計の中に入れたよ。
あれが夢ではないのだとしたらな。
まさか・・・・。

俺はゴクリと生唾を飲んだ。
この日記によると、かなり腹が減っているらしい。
白いご飯をお腹いっぱい食べたいと書いてある。
俺は、ある行動に出た。

リビングに下りて行き、台所に行っておにぎりを握った。
釜に入っている全てのご飯を使って、握れるだけ握った。
それを皿に入れて、古時計の中に日記と一緒に入れてみる。
1時間後、時計の中を見てみると、やはり何もない状態になっていた。
この時俺は確信をしたのだ。

この時計は、過去と繋がっていると・・・・。









9: ハナミズキ [×]
2014-09-21 00:14:02

◆ 昭和18年 ◆ 


この年の東京では、食糧事情がより厳しくなっていた。
ほとんどの物を配給に頼っているため、予定通りに配給をされないと、食べる物が全く無くなる。
食べる物は勿論だが、着る物も配給になっていた。



※戦局が長期戦の構えを見せ始めた昭和15年(1940)6月から、6大都市(東京・大阪・横浜・名古屋・京都・神戸)で砂糖・マッチの切符配給制が実験的に実施された。これは切符の提示によってのみ物品を購入することができるというもので、同年11月には全国で実施され、次第にその品目は米などの主要な食糧、その他の食料品、衣類、木炭などの日用品にも及んだ。

しかし、年を追うごとに計画的な配給ができなくなり、配給切符や通帳があっても配給所には品物がないという事態がおきるようになった。



この頃の東京では、庭をつぶして家庭菜園にしている家も多くみられるようになる。
庭が無い家では、道路の一角を畑にしている所さえあった。
そんな時代だ。

食べる物の配給が滞(とどこお)るようになれば、小さな子供と年寄りから死んでしまうからだ。
見栄も体裁もない。
そんなもので腹が膨れないのは百も承知している。
だから、見栄や体裁などと言う物は、全て捨て去り、今日一日を精一杯生きるしかないのだ。
早く戦争が終わる日を夢に見ながら。

そしてここにも、精一杯今日を生きている子供がいた。
名前は、黒田 豊と言う。
まだ10歳の男の子だ。

豊の家族は、祖父母・父母・兄・自分(豊)・弟の7人家族である。
祖父と父親は時計職人だったが、このご時世でその仕事ももうない。
父親と兄は、軍事工場で働きながら、一家の生活を支えていたのだった。


10: ハナミズキ [×]
2014-09-21 00:15:00


学校から帰って来ると、母ちゃんが町内に配られた広告を見ていた。
そして僕に、大事な物だからしまって置いてと言うので、僕が大事にしている置時計の戸棚の中にしまいました。
しまってしばらくすると、置時計の中から― カタリ ―と音がしたので、僕はネズミでも入り込んだのかと思って、置時計の扉を開けてみると、さっき綺麗に畳んで入れたはずの広告が、くしゃくしゃになって、そこにあった。
不思議に思い、僕はそれを手にしてみると、ずしりとした重みを感じたのです。
広告を広げてみると、なんと!そこには夢にまで見た甘い食べ物、飴玉が入っていた。
それも、5個もだよ?!

僕は嬉しくなりました。
ずっと食べたいと思っていた甘い物が今、僕の目の前にあるからです。
僕は急いでそれを母ちゃんに見せに行きました。
母ちゃんも不思議だと言い、でも、それは神様がくれたご褒美かもしれないよ、と言うので、僕はみんなで分けて食べる事にしました。
でも、爺ちゃんと婆ちゃんと父ちゃんと母ちゃんは、いらないと言います。

だから飴玉は、兄ちゃんと僕と弟で1個ずつ食べて、あとの2個は取って置く事にしました。
飴玉はちょっと変わった味がしてたよ。
いつも食べているべっこう飴ではなく、赤・水色・黄色・茶色・紫と、とても綺麗な色をしていました。
兄ちゃんが食べた黄色いやつはミカンの味がしたそうだ。
僕が食べた水色のやつは、ソーダ―水の味がした。
弟が食べた赤いのは、イチゴの味がしたと言ってたっけ・・・。

とにかく、不思議な味でした。


11: ハナミズキ [×]
2014-09-21 00:16:00

最近、お国の配給が少なくなってきています。
僕の家は7人家族なのに、お米の配給は週に1回で、1人1合だから・・・全員で7合しか貰いないのです。
それも雑穀米を。
雑穀米なんて、豚が食う食べ物なのに・・・。
それを僕たちが食べるなんて・・・白いご飯が懐かしいよ・・・。
お偉い軍人さんは毎日白いお米を食べてるんだろうな・・・。
羨ましいな。

でも、そんな事を言ったら、憲兵に捕まって殴られちゃうから、絶対に言えないので、僕は日記にその事を書いたんだ。
白いご飯をお腹いっぱいに食べたいって。
だけど、その日記を読まれたら怒られるから、僕は置時計の中に隠したんだ。
そしたら!また神様が僕の願いを叶えてくれたんだ!

時計の中で音がしたから扉を開けてみると、その中には、お皿一杯のおにぎりが入っていました。
それも、ホクホクと温かいやつが!

僕はそのおにぎりを持って、母ちゃんたちに見せました。
みんな驚いた顔をしてたな。
だって、大きなおにぎりが13個も入ってたんだ。
おにぎりの中身だって、梅干しやおかかに、あと分からないけど、ふりかけの様な物を混ぜた物があったんだ。
ふりかけのおにぎりは、魚の味がして美味しかった!
あれは何の魚の味だったのかな。

僕はこの日、お腹がはち切れるくらい白いご飯を食べたよ。
本当に美味しかった。
神様っているんだね。











12: ハナミズキ [×]
2014-09-21 14:37:26

◆ 古時計の真実 ◆


この古時計は気まぐれなのか、それとも、こちらからは何も送れないのか、謎の品物が先に届かないと、何を入れても消えてなくなる事はなかった。
いったいどうなっているんだ?
とりあえず俺は、何かが古時計の元にやって来るまで待つ事にした。
そして今度は、手紙を中に入れてやろうと考えていた。

9月。久し振りに何かが来た音がする。

― カサッ ―

扉を開けて中を見てみると、一通の手紙が入っていた。

― 神様へ
  この間は沢山のおにぎりをどうもありがとうございました。 
  家の人みんなでお腹一杯に食べました。
  とても美味しかったです。

  神様にお願いがあります。
  爺ちゃんが病気になりました。
  お砂糖とお味噌が少しだけでもいいので欲しいです。
  病気の爺ちゃんに食べさせてあげたいです。
  お願いします。                         ――

そう書かれていた。

俺は急いでスーパーに行き、砂糖と味噌、それに醤油や油、米と野菜も買った。    
俺の予想だと、この荷物が届く時代は過去だろうと踏んだ。
なら、この品物が未来の物だと、気が付かれてはまずいのではないかと思い、時代が限定されるような所は、すべて排除した。

それらのラベルを全て剥がし、砂糖と味噌や米は油紙に包み、紙袋に入れ、古時計の中に、俺が書いた手紙と一緒に入れた。


13: ハナミズキ [×]
2014-09-21 14:38:33

俺からの手紙には、少し質問事項を書いてみた。

― 俺は神様じゃないけど、君が欲しいと言っていた物を送ったよ。
  それでいいかな?
  俺の名前は、立花 翔太って言います。
  君の名前はなんて言うの?
  他に何か欲しい物はないかな?
  あればまた送ってあげるから、遠慮しないで言って欲しい。

  お爺さんが早く元気になるといいな。
  また手紙が来るのを待ってるから。                ――

それだけ書いて送った。
少し時間がたった頃、再び手紙が入っていた。
お礼の手紙だ。
それから何度か手紙のやり取りを、豊と名乗る少年と行(おこな)った。

手紙の内容からすると、彼の名前は黒田 豊といい、兄と弟が居る7人家族だと言う。
豊は10歳で、国民学校の4年生だ。
・・・・つまり、昭和16年~22年の間だという事だ。
推測すると、いまは戦時中だと思う。
何故なら、この6年間だけが、国民学校と呼ばれていたからだ。
幅が狭まった。
昭和16年~20年の間だと推測が可能だ。
そして、住んでいる場所が東京だと言っていた。
って事は・・・あの東京大空襲の前という事か?
更に年月が狭まる。
東京大空襲は昭和20年の3月だ。
今は11月。
いったい何年の時代に豊は居るんだ?

俺は、豊が生きていると思われる時代の未来を知っている。
でもその事を豊に教えてもいいのか?
それは歴史を改ざんする事になるのではないか?
俺はいったい、どうすればいいんだ・・・・。
心の葛藤がしばらく続いた。


14: ハナミズキ [×]
2014-09-21 14:39:55


手紙のやり取りは、あれから1年ほど続く。
まるで文通をしているかのように、数カ月に一度の手紙の交換が行われていた。

豊の所は、益々、食糧事情が悪化してきているようだ。
そして、この頃の手紙には、度々空襲警報が鳴り、爆弾が落されたところもあると書かれていた。
俺は、豊から手紙が届くたびに、少しずつ食べ物を送っていた。
いっきに送ると怪しまれるかもしれないからだ。

クリスマスの前日に、豊から手紙が届いた。
手紙には、来年の4月に、弟か妹が出来ると書いてある。
逆算すると、今は妊娠6カ月くらいだろうか。
食糧難のあの時期に子供を産むという事は、どんなに大変だろうか。
そう思った俺は、それから毎回、米と卵を手紙と一緒に入れていた。

ある日、古時計から音がしたので見てみると、綺麗に飾りが彫られた小箱が入っていた。
その中に手紙が入っており、読むと、父親の仕事道具である、細工に使うカンナやノミなどの道具が、お国の為に献上しなくてはならないらしく、いつも食べ物をくれる俺に、何かお礼がしたいと考えて、最後の仕事としてこの飾り箱を俺に作ってくれたらしい。

満足な道具などあるわけがないので、漆もニスも塗ってはいなかったが、俺にとっては大事な宝物となった。
そしてこの古時計も、豊が生まれた記念にと、父親が作ってくれた物らしい。

そう言えば製造年月日が裏に書いてあったっけ・・・。

「!!!! あれが豊の誕生日か?!」

慌てて確認をした。
昭和8年4月6日。そう書いてある。
豊は今11歳だから・・・今は19年だ!
もう直ぐ年が明ける。


15: ハナミズキ [×]
2014-09-21 14:41:39

昭和19年の11月頃から東京は頻繁に空襲にあうようになる。
合計106回。
その中でも、昭和20年3月の空襲は有名だ。
そう、あの東京大空襲がおこるのだ。
20年3月10日、4月13日、4月15日、5月24日未明、5月25日―26日の5回は、大規模だ。
その中でも、3月10日の空襲では、死者数10万人以上となっている。

いったい、豊は東京の何処に住んでいるのだろうか。
俺は嫌な予感がして仕方がなかった。

こういう嫌な予感ほどよく当たる。
どうせ当たるなら宝くじにでも当たってほしいものだ。
そんな事を考えていた。


これは事を急がなければならない。
そう考えた俺は、手紙の中に、ある一つの質問を書いた。

豊の住んでいる場所を特定しようとした俺は、分からないようにこう書いた。

――  豊は正月に、何処かに初詣に行くのかな?
    豊の家族は仲が良さそうだから、みんなで一緒に行くんだろうな。
    もし行くとしたら、豊が欲しがってた妹の事をお願いするといいよ。
    きっと可愛い妹が生まれてくるからさ。               ――

すると、返事にはこう書いてある。

――  今年は行かないと思います。
    去年まではみんなで、近所の浅草神社に行ってましたが、
    今年はきっと、行かないと思います。
    早く戦争が終わらないかなと、思います。             ――



この文面からすると豊は、この時代には珍しい子供だという事が見て取れる。
大人たちやラジオから聞かされる情報は、全て戦争がらみのはずで、日本が有利だ、連勝している、そんな言葉しか耳には聞こえてこないはずだ。
それなのに、敵国憎し、米兵憎しとは一度も書いては来なかった。
お国の為に自分も闘うと書いてあったことはあるが、同じ人間なのに、どうして戦争をしなければならないのかと、疑問を投げかけて書いて来る時もあった。

そんな時俺は、「この戦争はもう少ししたら終わるよ。戦争が終わったら、どの国の人とも仲良く暮らせるし、戦争のない平和な日本になるから、もう少しの我慢だ。」
と、書いた。

豊が投げかけた疑問の答えにはなっていないのは分かってはいたが、本当の事は書けない。
日本が満州に行ったのは、農地拡大の為ではなく、ロシアが日本を侵略しようとしていたから、その防衛のために日本軍が送られていて、その食料調達のために、一般の国民に、満州に行けば広大な農地を与えられ、飢える心配が無いと吹き込まれてるとか。

その広大な農地とは、実は、いままでそこに居た満州の人から取り上げた農地と家だとか、そういう事は教えられてはいないはずだ。

大戦の引き金になった真珠湾攻撃も、敵国が、俺の出した条件を呑め、呑まなければ今まで輸出していた物資を全て止めてやる。だった。
つまり、条件を呑めば、日本は敵国の植民地のような状態になるし、呑まなければ、物資が滞り餓鬼状態になる。

人々は食べる物に困り、大勢死ぬ事になるだろう。
それに、鉄や石油等の資源も輸入に頼っていた日本としては、近代的発展も望めなくなる。

したがって、この打開策は、戦争をして勝ち、戦勝国としてこちらの条件を提示するしか手はなかったのだ。
だが、勝つ見込みなどなかった。
それは初めから分かっていた様なものだ。
兵の人数が違いすぎるからだ。

それなのに日本は、一億玉砕を覚悟して挑んだと言えよう。
相手の言いなりになるくらいなら、最後まで抵抗をしてこの国を守ろうと。

そんな事実は言えない。
必ず勝つと信じている者に、この戦争は勝つ見込みが0に等しい事など、決して言えない・・・。


16: ハナミズキ [×]
2014-09-21 14:43:29


そして、豊の手紙には、豊が住んでいると思われる場所のヒントが書かれていた。
「浅草神社」だ。
その場所を地図で確認をしてみる。

・・・・何てことだ。浅草がある台東区は、あの3月9日に空襲にあった地域だ。
浅草神社を良く調べてみると、一部は空襲で焼けたものの、その殆どが無事だった事が分かる。
そこで俺は、「もし、空襲があったら、迷わず浅草神社に逃げろ」そう、手紙に付け加えた。

本当はその場から疎開をしてほしかった。
でもそれには理由が必要になるだろう。
もし、大掛かりな空襲が来るから逃げろと言っても、だれも本気にはしないだろうと考えた。
俺だって、明日大きな地震があるから逃げろと言われても、本気にはしないだろう。


そしてとうとう、3月をの声を聞く事となる。
あと、9日だ。















17: ハナミズキ [×]
2014-09-23 23:21:01

◆ 東京大空襲 ◆


僕は、時計の神様と友達になった。
神様は、僕たちがお腹を空かせて困っていると、食べ物を分けてくれる。
病気の爺ちゃんや、お腹が大きい母ちゃんは、大変喜んで毎日時計の神様に手を合わせて拝んでいた。

11月頃から頻繁に空襲があるようになり、大事な物を抱えて防空壕に避難をする回数が増え、その時僕は、この置時計を背中に背負って避難をする事にしていた。
僕たちを守ってくれる神様を置いていく事は出来なかったからだ。

ある日、神様からお告げがあった。
「もし、空襲があったら浅草神社に逃げろ」と。
僕はその手紙を、母ちゃんにも見せた。
そしたら母ちゃんは、神様がそう言ってるのだから、もしもの時は浅草神社に逃げようと、家族全員に言ったのだ。

しばらくは空襲警報が鳴っても、僕の家の方には爆弾は落とされませんでしたが、昭和20年3月9日22時30分、警戒警報が発令された。
でも、二機のB29が東京上空に飛来して房総沖に退去をしていったので、僕たちはいつもの偵察機が来たんだと思い、安心して寝る事にしたんだ。

そして、3月10日午前0時08分に第一弾が投下された。
その時、空襲警報は鳴らなかった。

僕は物凄い轟音(ごうおん)で飛び起きて、外を見ると、外は焼夷弾(しょういだん)の炎で、まるで昼間の様に明るくなってたんだ。
母ちゃんたちは急いで荷物をまとめて、僕たちに先に逃げるように言いう。
でも僕は、お腹が大きい母ちゃんと一緒に行くと言い、母ちゃんを連れて逃げた。
兄ちゃんは、爺ちゃんと婆ちゃんを連れて逃げたけど、途中で兄ちゃんたちとはぐれちゃった・・・。

コンクリートの道路は熱で溶けて熱いし、木製の電柱は火の粉が降りかかって燃え盛ってるし、怖いよ・・・。
家も焼けて、そこら中から火の手が上がってた。


18: ハナミズキ [×]
2014-09-23 23:21:33

僕と母ちゃんは、その中を必死に逃げたんだけど、燃えてる家のトタン屋根が、真っ赤になって、その爆風の中を飛び交い、僕たちに向かって飛んで来る。
僕たちは、それを交わしながら、神様が言っていた浅草神社に向かって逃げた。

逃げる途中で、熱さの為か川に飛び込む人や、消火用の水槽に浸かっている人も居た。
僕の目の前で、炎に包まれた家の壁が倒れてきて、前を逃げてた人がその下敷きになってしまい、助けたくても炎で包まれてて助ける事が出来なかった。

僕はとにかく逃げました。
逃げる途中で、何人かの遺体とも遭遇したけど、今はもう、怖いとか可哀想と言う感情は無くなってたんだ。
僕の頭の中には、もう、逃げる事しか考えてなかったからだ。

炎の中を、火傷をしながら神社に着いた。
そこには大勢の人が避難をしにやって来ています。
みんな、いつここまで火の手が来るのか、それだけを心配していた。

僕たちは無事に逃げて来たけれど、兄ちゃんたちがまだ来ていない。
兄ちゃん・・爺ちゃん・・婆ちゃん・・何処に行っちゃったの?
父ちゃんは今日、軍需工場で徹夜で仕事をすると言ってたので、父ちゃんが無事かどうかも心配です。

神社に避難してきた人たちは、みんな、火傷をしてたり、怪我をしてたりしていたけど、何とか無事のようです。
社の中には、怪我をした人や、お年寄りたちが優先的に入っていて、僕たちは社の外の境内に座って、町を覆っている炎を眺めて朝まで過ごした。

朝になると、あれだけ酷かった火の手がだいぶ沈下してました。
そして、僕が見た光景は、何処までも続く焼野原と微かに匂う異臭だった。
悲しいとか、涙が出るとか、そういう感情はもうない。
ただ茫然と、その光景を見て立ちすくむだけでした。

僕の家があった方向は、コンクリートでできてた建物が所々残っているだけで、後は何もない平地になっていた。

僕は母ちゃんと一緒に、兄ちゃんたちを探しに、一度家に戻ってみる事にしたんだ。


19: ハナミズキ [×]
2014-09-23 23:22:09

戻る途中で見た光景は、あちこちに黒焦げの遺体と焼けた残骸が散らばっている光景で、僕たちはその残骸を踏み越えて行き、あちこちに転がっている遺体もまたぎながら進んだ。
家族だと思われる人が、泣きながら遺体を運んでる光景も目にした。

昨日見た消火用の水槽の中には、黒焦げの人が沢山浸かったままの状態で入っていて、川には、大勢の人の亡骸が、山積みになって倒れている。
その中に、兄ちゃんたちの姿が無いか、僕たちは隈なく探しました。
木の焼けた匂いと、肉の焦げた匂いが鼻を突くけど、そんな事を気にしてはいられない。

初めのうちは、その酷さに吐き気を覚えましたが、幸いな事に僕のお腹には、吐けるような物が何も入っていなかったからだ。

兄ちゃん達だと思われるような遺体が見つからなくて、少しほっとしながら家にたどり着いたけど、だけどそこにはもう、家は無かった。
あったのは、焼け焦げた家の柱と、地面の下に穴を掘っただけの防空壕が残っていただけだ。

家の跡地からは、まだ少し煙が立ち登っている。
防空壕に入れてあった物は、ほとんど焦げて真っ黒になってしまってた。
僕は家の焦げ跡を掘り返して、何か使える物はないか探したけど、全て燃えてしまっていて、割れた皿や溶けた鍋くらいしか見つけられなかった。

兄ちゃん達の事が心配だったので、この近くで、爺ちゃんの足でも避難できる所を探しに行く事にした。

初めに、近くにあるコンクリート造りの学校に行きました。
しかしそこに居るのは、みんな息をしていない死体ばかりだ。
もしかしたら学校の裏手にある川に居るかも知れないと思い、今度はそこに行ってみる事にする。

そこにも居なかった。

しばらく兄ちゃん達を探し回りましたが、もしかしたら家に帰ってきてるかもしれないと思い、一旦家に戻り、家で日が暮れるまで待ってましたが、兄ちゃん達も父ちゃんも戻って来ないので、僕たちは神社に行って、そこで待つ事にしたのだ。

神社に行くと、兄ちゃんと父ちゃんが居ました。


20: ハナミズキ [×]
2014-09-23 23:23:06

僕は兄ちゃんに、爺ちゃんたちは何処かと尋ねると、兄ちゃんは涙を流しながら言います。
爺ちゃんと婆ちゃんは、逃げる時に崩れた家壁の下敷きになってしまい、助けようとしたけど、通りすがりのおばさんに、「危ないから逃げるよ」と、手を引かれて連れて行かれたそうです。

何とか火の手かのがれて、山で一晩過ごしたと言っていた。
そして、そのおばさんと一緒にこの神社まで来て、僕たちは再会したと言う訳だ。


住む家もなく、食べる物もないので、僕たちはしばらくこの神社にお世話になる事になりました。
神社にも、余分な食べ物なんかあるわけもなく、僕等はそこら辺に生えてる、食べれそうな草を探しては食べていました。
ここに居る人たちはみんなそうしてたので、そのうち食べられそうな草も無くなる。
食べれそうな物が無くなると、今度は、木の葉や木の幹、はては木の根っこを食べて飢えをしのいだ。

そんな生活が一カ月ほど続いたころ、母ちゃんがとうとう妹を産んだんだけど、まともに食べていなかったせいで、母ちゃんのお乳が出ないんだ。
みんなが待ち望んだ妹なのに、お乳が出なくて飲めないから、妹は日に日に弱っていく。
そして僕は、思い切って神様にお願いをする事にした。

―― 神様へ
   妹が生まれました。
   でも、母ちゃんのお乳が出なくて、妹がお腹を空かせています。
   どうか妹を助けてください。
   お願いします。   ――               


その手紙を出し後、神様から不思議な物を貰った。
アルミ缶に入った小麦粉のような物だった。
ほのかに甘い匂いがして、少し舐めてみると甘くて美味しい粉だったんだ。
それと一緒に、粉の使い方が書いてあって、お湯で溶かして哺乳瓶とやらに入てれ飲ませろって書いてある。
僕は神様の言う通りに、それを作って妹に飲ませたんだ。
そしたら、妹は美味しそうにゴクゴク飲み始めた。
そして、みるみる元気になっていったんだ。
僕は嬉しかった。
大事な妹が死なずに済んだからだ。


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